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2009年02月04日

カッコーの巣の上で

カッコーの巣の上で


       「カッコーの巣の上で」

        ミロス・フォアマン

           1975

       TSUTAYA DVD


 結構古い映画になってしまったが、

しかし今の映画として観る事が出来るのは、

やはり傑作なのである。

まさに「今の沖縄」なのかもしれない。

 1975年。その頃私は東京に居て、

そこで沖縄を生きていたのだが、

いや政治的な振る舞いをしていたという事では全然なくて、

超個人的に沖縄だった。

つまり沖縄人らしい沖縄人では無かったので

沖縄人として振る舞っているのだが

そのようにはあまり認められないという事だ。



時に友人の「沖縄人」はコンクリートの柱に向かって

空手を披露していた。

彼は彫りも深くて髭も濃い、

屈強そうな体躯であったので見事な沖縄人であった。

おかげでますます私は沖縄人では無かった。

でも、その結果、他者が沖縄人をどのように見ているかが

良く分かって悲しいほどに面白くもあった。

 「沖縄人」である私は「泳げない」「踊れない」

「サンシン弾けない」「英語を話せない」「空手知らない」

の5拍子揃っていて、

名前も、ちっともエキゾチックじゃなかったから

すんなり溶け込んでいた。

言葉も他県人より、丁寧に上手く話せたので

年長者からは話し方を、寧ろ褒められたくらいだ。

何を言っているかといえば、

1975年にあっても沖縄は「別の趣き」があったのである。

それは今も変わらないのであるが、、、。

 「別の趣き」のある沖縄人は褒めそやされる事で

檻に入れられる事があるのを知っていたので、

その趣きを出さないようにはしていたが、

もっとも5拍子揃っていたので出せないという事もあったが、

それでも沖縄人であるわけで嗅覚はそれを見逃さないはずである。

上手く入り込んだのをほくそ笑む私がいたのもまた事実であるが、

だからといって何かが変わるという訳でも無く、

やはり「沖縄人」なのである。

 さて、、、、。

「ナイチャー」という言葉がいつの間にか愛称になって久しいが、

誰も「ガイチャー」と言わないところを見ると、

分かってないだけの事であろう。

つまり「ナイチャー」を認めると、

我々は「外地人」という事になる。

何の事か?だからねッ。

であるから知念ウシ氏が

「日本の中で比較され順位づけられると、

良かろうと悪かろうと、なんかヤッケーである。」

という感覚が如述にあるのだが、もう大方には無いのだろうか。

 「日本資本主義社会でサバイバル」すべく、

上手く日本語を話す青年の私は件の屈強な沖縄人より

事態をスキップして暮らせただろうが、

だからといってそれは、他県者にとってはフツーの事である訳で

我々沖縄人がひとり気苦労すべきことでは無いはずのものである。

私はスキップ?したからそれほどのダメージを受けてないが、

「学力最下位」で臨むとなると

「日本資本主義社会」を享受できないばかりか除外の恐れ在りだ。

であるからサバイバルとして必要は分かるが、

「考える力」として身につける事が大事で、

そのように(学力の向上)適応していては

「沖縄人」としての序列から逃れられない

のでは無いのではないだろうかと思う。

「大城さんや砂川君」の登場は望ましいが、

一見辻褄が合うだけで

やはり「沖縄人」の大城さんと砂川君には違いないだろう。

そこからの脱出は、

目に見える形では独立(十分権利である)であるが、

我々の主体がその意識(考える力)に無ければ、

ドゥーフミーのウチナーンチュにしかならない

のではないかと杞憂する。

 つまり「学力」はともかく日常会話のボリュームを

相当に膨らませなばその「学力」にも

「沖縄人」からも脱出できない。

琉球語を、方言を話せれば現代琉球人ではないはずで、

我々の「考える力」こそをつける事がこそ

アイディンティティではないか。

  私達には「選択する」という権利があるはずなのだから!

 何を選択するか、「自分たちで考えた事で選択する」事だ。



 映画である。

 既に治療を受けている人達(患者?)は

婦長の質問に上手く答えれば「健康」で、

上手く答えないか、突如自分の考えが浮かんで、

それで答えようものなら治療とは正反対の罰が待っている。

それは病状を悪化させるどころか、

自らの死にいたるのである。

彼らは患者の、「自ら選択するという能力」を、科学的、

あるいはそれに裏付けされた心理療法で末梢する事で、

患者を、大人しく、意のままの人に作り上げるのである。

 映画ではそのシステムに対する闖入者として

ニコルソンが居るが、その抵抗も管理の範囲にあり、

イザとなればいつでも潰す事の出来るものである。

しかし映画のその成り行きを見ていると、

あまりに沖縄的で驚愕するのであった。

飴と鞭どころか、すでに十分に管理されているのだ。

近年沖縄映画が話題に事欠かないが、

沖縄のオの字も出てこないこの映画こそ

沖縄そのものであると映像は突きつけている。

ぜひご覧頂きたい!



参考文献 「ウシがゆく」知念ウシ(沖縄タイムス09.2.1)



           カワウソ





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Posted by ネコとウソ at 22:24│Comments(0)映 画
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