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2008年07月09日

胡同の理髪師

胡同の理髪師


        胡同の理髪師

      2006年 中国映画

   7月11日(金) パレット市民劇場

 身につまされるほどの歳では全然無いが、

この暑さのせいか持病が出てきたようなので

一気に入っていくことになる、、、、。

都市の喧噪、その少し離れたところでの

静粛は人に考えることを促す。

時代に取り残されたような胡同(フートン)いや、

この言い方はふさわしくないか、

近代の方がフートンを取り囲んできたのであって、

フートンは昔からそこにあったというべきか。

我々はこの近代の中で、

このような地域を無い事にしようと未来の都市を空想し、

実現してきた。

その結果フートンが忽然と現れたような気さえもし、

不思議なものを眺める程に我々は

不遜になってはいないだろうか、

猫に癒されたいと思うほどに、、、、。

映画案内のチラシの写真は

フートンの川沿いの遠景を映しているが、

今となっては、その古色蒼然とした風景の中に、

手前の家の屋根にクーラーの室外機を発見するにいたる。

私とて、もちろん映画であるから、

まして2006年の中国だ、

クーラーの室外機で景観を削ぐだの

「クーラーあるんだぁー」などと言うつもりはない。

コザだって書割のような街から

今のような何処にでもある中都市の景観だが、

裏に回れば継ぎ接ぎの中にやはりクーラーの室外機を見出す。

私は近代とは、

このようにどこかで無理をして紡いできた

文化だったのではとクーラーの室外機やTVのアンテナ、

そしてモンゴルのパラボラアンテナを見て、

いや皮肉なことに、

モンゴルこそはその大草原から

いかにパラボラアンテナが

有効か分かるというものでもある。

一掃しようにもそうはいかない身体がある。

近代はそれを捨てたつもりであったが

我々は今疲弊しているのではないのか。

チンさんの朝は6時に始まり、

夜は9時に終わる。

時計はいつも5分遅れるが、

93歳のチンさんにあっても

その遅れは気にかかる。

時間がではない、気概のことだ。

今はもうお店を持ち営業しているというわけではないが、

かつてからのお客である友人宅を回るのが

チンさんの日課である。

客も高齢である。

寝込んでいる者には檄を飛ばし、

すこぶる元気な者同士ではマージャンを楽しむ、

それもちゃんと賭け事としてのリアリティをもって、、、、。

しかし時というのは非常なもので友人を訪ねた先で、

その死を見取ることになる。

またひとり友を失う、

そのことはまだ若い我々にはチンさん達のようには分からない。

映画のシーンで、

チンさんが葬儀のことで電話しているその横では、

若人が抱擁して生を謳歌している。

またTVではピチピチギャルが映し出されているが

マージャンをしているチンさん達

誰一人それには気づかない、

が、TVに葬式のシーンが出ると

おもむろに皆がTVを振り返る。

フートンからカメラが引くと

その遠望に高層ビルが立ち並ぶ北京となる。

6車線の道路に車がひしめき、

それはニューヨークも東京も変わらないものだ。

未だにイメージが更新されていない私の中国が

一気に新しくなる。

がしかし、それはどこか分からないデジャブーの

景観であり中国ではないように思える。

私の中での中国はもっと別な様相をしている。

沖縄が私(達)の知らない沖縄に見られるように、

一歩間違えば偏見とも受け取られかねない

中国像なのかもしれないが、

しかし中国はこのようにはなってはいけない

という部外者の我儘であるだけかもしれないが、

あれだけの歴史とスケールを持っているのだから、

たかだか200年程のアイディアに

飲み込まれるものではないという

超絶な力のようなものを

蠢く人口の中に垣間見るのは間違いなのだろうか。

さらに、その後にはインドが控えてもいる。

我々はすでに後塵みまわれているというのに気付かず、

それどころかアジアの一員であることすら

忘れているようにも思える。

琉球から日本、中国をみればすぐに分かりそうなものなのに、

と言っているはしからファーストフードに行き、

DVD映画でアクションを楽しんでいるか。

私達は、やおら畑を耕すというものではないにしても

「西の魔女」のようにはくらせないか。

今の暮らしが単に惰性であり、

利益に突っ走っているからで、

やめちゃえばOKだったりしないのかしら、、、、。

何を言っているんですかぁ、とお叱りを受けるか、

それは良い方で、まあ無視されるのが落ちだし、

いきなり、その缶ビール止められますか

とさえいわれかねないでしょう。

だって、こんなに始まっちゃってて、

もう複雑で最初の糸口なんて、とうの昔に無いし、

やめるのだって何処からやめてよいものやら、

だっていうのに、ですか。

でもチンさんの一挙一動に、

なにかしら安心と優しさを感じるのはどうしてだろう。

今にも死にゆく人を見て我々はなにゆえ

ウットリとさえしてしまうのだろう。

この感触はしかし事実だ。

この感触を我々はまだ覚えているからこそ、

そう感じるのではないだろうか。

それはすぐそこにあるように思われるのにだ。

見えているはずなのになぜ通り過ぎようとするのか。

壁に取り壊しのマークを書く手は知っているのに。

チンさんはその文字(マーク)の間違いを

指摘さえしているのに、

果たして我々は自分の頭で考えて

行動しているといえるのだろうか。

いつのまにか「決まり」になっていないか、

誰が決めたのだ、おまえか、アンタか、

それとも私自身なのか。

人が生きるということは

きっと滑稽なことなのかもしれない。

しかしそれは真摯に生きてこその悲喜交々であって、

誰かの犠牲の上に、あるいは嘘をついて生きていては

おぞましいだけではないか。

新聞を見ればそれこそ毎日がおぞましい事件で彩られており、

あまりのカラフルさに

もう何が何だか分からなくなってさえいる。

言うまでもないのだが、私はまだまだ若い、

チンさんのことについてなにかを語れるものではない、

しかしチンさんから質問を受けているのは確かだ。

それには答えない訳にはゆくまい。






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Posted by ネコとウソ at 23:08│Comments(0)映 画
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