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2017年08月11日

きりこは、ぶすである。

きりこは、ぶすである。




     きりこについて

       西 加奈子

       角川書店


    面白すぎてやがて、、、、。


 「きりこは、ぶすである。」
とはじまり、後はいかに彼女がぶすであるかを書き連ねていく。
正直驚いたが、
まっ、
こういう事もあろうと百戦錬磨の美術家としては、
心落ち着かせてゆく。
すぐに気になりだしたのは、
著者は美女ではないだろうか?ということである。
yahooの画像を検索してみれば、
私の好みでも、
マックスファクターのモデル似でもないが、
美人でしょう。
あるいは清潔感があって知的で、
アクティブな女性という感じだ。
作家だし、、、。

 
 以下本文より、、、。 

 思い出してほしい。
大人のあなたがグダグダに酔っぱらってしまったとき、
誰かが言った、
「ぼくのおしりはおでこです」などという一言で、
お腹を抱え、よだれを垂らして、
椅子から転げ落ちて、
いつまでも、笑ってしまったことは?
 子どもを見てほしい。
誰かの言う
「うんことおれとビル」などという一言で、
いつまででも、笑っているではないか。
笑いすぎておしっこを漏らしてしまう者や、
過呼吸になって両親に相当な心配をかける者も、
いるではないか。一緒なのである。
 または、
そんなに好きではない異性に誘われ、
居心地が悪いものだから鯨飲した際、
「あなたが好きです。」
などと、耳元で囁かれたとしよう。
そんなに好きではない。
いやむしろ嫌いの部類、
だからこそ飲んでしまったあなた、しかし、
耳元で何度も囁かれる
「好き」「素敵な夜」「休憩」などという言葉に、
あなたは段々、「うっとり」してくる。
この場の「うっとり」、というのは、
猫が空を見ている「うっとり」とは違う。
人間のそれには多分に、
「面倒くさい」という気持ちが入っている。
同じようなことを、
抑揚のない言葉で何度も何度も言われ続けると、
アルコールとは別に、
脳内麻薬のようなものが出始め、
第三の目が開き出す。
あなたは悟りを開いたような気持になり、
ついでに異性にも体を開いてしまうのだ。
きりこの顔は「衝撃的」だが、
子供たちは「酔った」頭でいるので、
きりこに、
「うち、可愛いやろ?可愛い、ものすご可愛いやろ?」と、
耳元で言われ続ければ、
「うっとり」し始めて、
「可愛いかも」と思うものだし、
何より自分たちの親に「きりこちゃんと仲良くしなきゃだめよ」、
また先生に、
「きりこちゃんを見習って」などと言われると、
徹底的にきりこが偉い、
と思ってしまうのは当然だ。
子供たちがあほなのではない。
何度も言うが、
あなたが、ぐだぐだに、酔っぱらっている、
状況を、思い出してほしい!
ただ、子供と大人の「酔い」の違うところは、
子供には「二日酔い」がない、ということだ。
大人たちは「酔い」から醒める。
そして昨日の愚行を思い出し、
軽く死にたくなる。
そして、
これからはあんなことを二度とすまい、
と胸に誓いながらも、
「うち美味しいねんで」と、
可愛らしく誘いをかけてくるアルコールを、
断ち切ることが出来ず、
また夢うつつ、つまり「うっとり」の世界へと、
足を踏み入れてしまう。
「うっとり」と現実の合間、を
行ったり来たりしているのが大人だが、
子供は、いつまでも「酔っ払って」いる。
先ほど「きょとん」としていると言ったが、
それは「うっとり」している、
とも言いかえが可能だ。
子供たちは四六時中「うっとり」している。
だから、朝でも昼でも、政見放送中でも、
「うんことおれとビル」と言われれば、
涙を流し、おしっこを漏らして、
笑い続けることが出来るのだ。(P33~P35)



 こんな感じで前半捧腹絶倒涙チョチョ切れながら読み進むが、
後半は社会問題に傾倒していって、
ネコの存在は霞む感じだし、
が、その社会問題は極めつけであり、
個(ちせちゃん)から発して社会が浮かび上がり、
個の何たるかをクッキリ浮かび上がらせ、
私はどう生きればよいかを誰でも
パッキリ分かるようにメッセージされる。

 「自分のしたいことを、叶えてあげるんは、自分しかおらん。」
                         (P157)

         となる。


  うむぅ~。

 して、
美人に明快に、哲学的に、
あるいは、きわめて表現的に
ブスで大丈夫
(大丈夫と言っているわけではなく、
認識の置換を行えと言っている)といわれても、
そうですよねっ!という訳には中々いかないと思うのだが
、「きりこについて」を読めば、
生きていけるかとなれば、
そうだという読後感に満ち溢れるのだが、
読み終えて数分後には、
やはりブスだ、、、。となるか。
 私は画家である。
既に造形的美学のソフトがセットされている。
ゆえに、その認識でもって常に辺りを観まわしている。
みれば造形的に逸脱している者の方が多い。
非美学的造形顔相は理解しがたいかと言われれば、
そうであるが、まじまじと見れば失礼にあたり、
造形的に美しければ、
見れば見るほど称賛されるものであるか。
 画家は、
特に近代に入っては、
美しいものを見ようとしている訳ではない。
また、
醜の中に美を見出そうというものでもない。
それらすべてを含めて観察しているだけである。
 毎日観察していると、突然のように見出されるものがある。
それがなんだか解らないものなのであるが、
非常に興味を示されるものとなることがある。
一例をあげれば「おばさんのマチ」である。
何のことかわからないと思うので、説明すると、
しゃがんで懸命に床掃除をしているおばさんの、
つっぱったパンツにクッキリ浮かび上がった
「下着のマチ」それのことである。
別に引くことはない。
きりこの顔に比べれば半月のように美しい
ともいえなくもないではないか。
いや、だから美しく見えるからという話ではない。
そうではなく、
通常の状態から逸脱したものが、
脳を覚醒させているか、ということである。
画家(アーティスト)の
もっぱらの関心はそこにある。
覚醒させればなんでもよいかとなれば
ハプニングということもある。
しかし、ここではそれではなく、
美しいと社会的に認知されているものだけが
美しいのではないという発見である。
ゆえに、きりこは「可愛い」か?
ムリ。
無理を承知でお願いしたいという事もある。
というのがこの小説の本文ではないと思うが、
つまり私たちは社会という容れ物に容易に翻弄されている、
それはいかがなものかと問うている。
「定型発達」(大人の発達障害 備瀬哲弘 集英社文庫)やね。
そういうことで、
きりこや、ちせちゃんの苦悩、苦節を通す中で
考察し続けることに生きるということがあるのではないかと、
猫の手を借りてまで
「自分は死ぬまで生きることである」(P205)と言わせる。
というように、
達観できるようにしたいといえば、
どうだろうか。


         カワウソ








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