2008年12月21日
「審判」カフカ
「 審 判 」
カフカ
本 野 亨 一 訳
角川文庫
ヨーゼフ・Kはドゥーカンゲーの人である。
結果、「普通に対応」すべきところを
その「過剰適応」から半壊に至り、遂には全壊となる、、、。
「普通に対応」するという事は、
その「律法に対応」する事であり、
欠かせない「冠婚葬祭」である。
であるからココ(どこ?)でも「冠婚葬祭」は欠かせない。
なぜ香典を持っていくかではなく、
持って行くことに意味があるのである。
すべては決まりであり
異論をはさむ余地などない事になっている。
「理解せずして服従するという不可知論は、
政治的にはファシズムへの屈服を意味する」
(『城』あとがき、前田敬作)となると
ココで行われている事はいったい、
まさにその通りになっているのじゃないのか、、、。
ヌゥーガワカトウシェーというとき、
アンスカアビランケェーと、
よりハッキリと声をひそめながら伝えられるとき、
私達は屈服している。
して、その怒り出す感情はしかし、
何故か同じ弱者に向けられる。
理解は時に「8対2」となって、露骨に述べられるも、
その平穏な佇まいに弱者が怒りだせば、
その原因は弱者のせいにされる、、、。
イヤーガ、カチキジャースクトゥ、アンナイサ、、、、。
我らが琉球語は、マイノリティーの心情を、
さらにマイノリティーな、
心通じ合う言葉で攻撃してくるのか。
アン、イラリーネェ、ヌゥーディイレェシムガと返すか。
しかしアレだ、
「ドゥーカンゲェー」は我々の中にあるのだろうか。
「考える」といった時、AかBを決めかねる時であって、
「何を考えているBにしろと」言われる事はあっても、
「あまり考えてはいけない」のであり、
まして「自分の考え」などというものを差し出そうものなら
「訴訟の新米」(審判)といわれるのだから、、、。
ラプターもそこまで来ている、、、、。
獺
Posted by ネコとウソ at 22:02│Comments(0)
│本 雑誌
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