2008年11月06日
「変身」カフカ
「 変 身 」
カフカ
高橋 義孝 訳
新 潮 文 庫
数年の不況は私をじりじりと破綻へと
追い込んでいるにも拘らず、
ひとはそれを確認しようというのか、
それとも最後の一撃を喰らわそうと
思ったのかしらないが、
まだほんの子猫を庭に捨ててくれた。
猫を捨てられた理由は簡単だし
的を得ているとも思える。
それ以前に何回ともなく聞かされた「猫の家」と
名前を付けるからだというものである。
私は世間の人が破廉恥だとは思わないが、
事これに関してはいつも狼狽させられる。
意味が分からないのだ。
なぜ「猫の家」と名付けると
猫を捨てる人が現れるのか、
その論理的帰結が分からない。
それだけでなく、
どうも世間の人はそれを許しているようなのだ。
つまり「猫の家」と我が家を名付けたのが
いけないのだと、、、。
ところがである。
世間にならって改名した。
にもかかわらず猫を捨てられたのはどういう事だ。
答えは同じように用意されていた。
それは「猫好きの家」だからである、、、、。
私にはこれも分からない。
「猫好きの家」だからこそ猫を捨てては
いけないのなら解るが、その逆である。
それでは「子供の国」には子供が捨てられて
当たり前であり
「障害者」は一生その報いのために
不幸を背負わせられるという訳だ。
なるほど、
一体全体に君にどのような不幸があったか知らないが、
それを私にまでおっ被せようというのは
どういう了見でしょうか。
あなたが不幸なら私も不幸でなければならない
というのがその哲学でしょうか?
それとも、
私がお金もないのに幸せそうにしているのが
どうにも鼻持ちならないという訳なんでしょうか。
しかし、
先にも述べましたとおり私は
今経済的に困窮しているのであって、
投げ込んで欲しいのは札束の浮き輪であって
(束で無くともよろしいのですが、、、)
子猫では無いのである。
庭にはいつもコンビニから飛んでくる
ビニール袋がひとつやふたつあるものだから
当然それと思い、それにしては少し変だし、
妙なデザインがプリントされているようにも見えた。
妻に片付けるよう言いながら元に振り返れば、
そのビニール袋には猫の頭が付いていた。
おかしな事もあるものだと一瞬思ったものの、
それが子猫である事に気付くのに間はいらなかった。
妙なデザインはその子猫の柄であった。
猫はこうして私達がほんの一瞬気を抜いただけで
忽然と現れたように見える。
して、
またしても誰が捨てたかなどという議論は
ほとんど意味をなさないし、笑われることとなる。
なぜなら「猫好き」だからである、、、。
そして「一体何頭飼っているのですか!」と、
あるいは「・・・・いらっしゃるのですか?」と
問われようが事態は一緒で、
さらに後ろ指をさしておきながら
「ウチも飼えるといいんですけどねぇ、
子供が小さいし、それにアパートなんですの!」
と聞きもしないのにタンと
話を聞かされるということにもなる。
誰もあなたに猫を飼えといった覚えはないし、
家もこれ以上猫を飼いたいといった覚えもないのにだ。
どうしてくれよう、まったく。
と腹を立てても自業自得というものだ
という顔をされるのが落ちである。
しかし、
猫達はどうもそのアパートやら
なんやらから出没したり、
生まれ出てくるようでもあり、
また決まって捨てられるのは雌猫という事になる。
証拠?わかりません、
でも「猫好き」には証拠は要らないようです。
「猫好きの家には猫を捨てられてあたりまえ」
なのですから、、、。
もちろん正式(!)に捨てられるときには、
日曜日の朝の玄関前で、
四~五歳児のティシャツに包まれた
ほんの子猫が段ボールに入れられ
「まだ子猫です、可愛がってください」
というヒューマニスティックな御手紙に、
一握りの固形の餌付、
さらにラッキーな場合は銀行の袋に入った
「千円」が進呈されることとなる。
つくづく世間の人は賑々しいと思うときである。
わたしはいつのひか、
そのような世間を後ろからでは無く、
前から人差し指で突き刺したいと思っている。
さて、カフカである。
これは面白すぎてやがてわが身の
悲しさがありありと浮かび上がってくる
というものである。
主人公グレーゴルは家族のためにも
一生懸命働いてきたのに、
一瞬の(!)気の緩みから(?)迫害されることとなる。
あろうことかその家族にである。
親愛なる妹が言う、、、、
「もう潮時だわ。
あなたがたがおわかりにならなくったって、
あたしにはわかるわ。
あたし、このけだものの前で
お兄さんの名なんか口にしたくないの。
ですからただこう言うの、
あたしたちはこれを振り離す
算段をつけなくっちゃだめです。
これの面倒を見て、これを我慢するためには、
人間としてできるかぎりのことを
やってきたじゃないの。
だれもこれっぽっちもあたしたちを
そのことで非難できないと思うわ。
ぜったいに、よ」P85
さらに、、、、
「放り出しちゃうのよ」と妹が言った。
「それ以外にどうしようもうもないわ、お父さん。
これがお兄さんのグレーゴルだなんて
いつまでも考えていらっしゃるからいけないのよ。
あたしたちがいつまでもそんなふうに
信じこんできたってことが、
本当はあたしたちの不幸だったんだわ。
だっていったいどうしてこれがグレーゴルだというの。
もしこれがゴレーゴルだったら、
人間がこんなけだものといっしょには
住んでいられないというくらいのことは
とっくにわかったはずだわ、
そして自分からでていってしまったわ、きっと。
そうすればお兄さんはいなくなっても、
あたしたちもどうにか生きのびて、
お兄さんの思い出はたいせつに心に
しまっておいたでしょうに。
それなのにこのけだものときたら
あたしたちを追いまわす、下宿のかたがたを追いはらう、
きっとこの家全体を占領して、
あたしたちを表の道の上に野宿させるつもりなのよ。
ね、ちょっと、ほら、お父さん」p86~87
何故グレーゴルはこのように
言われなければならないのか、
いつ、彼があなたを傷つけたいうのだ。
我々はなぜか、
しあわせの方向にではなく
不幸の方へと走ってさえ行く、
どうしたものか。
何に怯えているというのだ。
しあわせが、考えるという事が、
それほどにもあなたを
狂わせてしまうというのか。
不思議でならない、、、、。
どうか「変身」があなたを
変身(覚醒)させてくれますように
、、、、。
思わずハイになってしまった。
ここで話をちゃんとしなくてはならない。
猫は生き物であるということである。
つまり私達と一緒だ。
その猫をあれやこれやと邪険にするようでは
私達も同じ扱いを受けるということなのである。
年寄り、子供たち、病人、無職、、、、
今日分かった事だが
「処分」は「定年退職」とも読むらしい。
獺
Posted by ネコとウソ at 22:19│Comments(0)
│本 雑誌
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