猫の足
沖縄タイムス 1.5.2009
「 猫 の 足 」
れんちゃんとりんちゃん
桃momo
TI-DA Blog
なんじゃこりゃという程に猫の足が入り乱れている。
2匹の織りなす情景はいわば
「尋常では無い」という事である。
8本の猫の足なのであるが、
この世界を指し示しているかのように混沌としている。
でもそれが、猫の足である事は明快であり、
種も仕掛けも無いのにこれ程の混乱ぶりを見せ、
一瞬なりとも我々を動揺させる。
もし観者がここで、
単に猫の足が絡まって見えるだけだと納得し、
かつ、
全体の画像でなーんだッと終了するなら
アートは見えてこない。
しかし、この違和感は何だという思いで
見つめるならアートの門戸はそこまで来ている。
猫の足なのは分かっているが、
でもそこで展開されているのは
猫の足にとどまってはいないとお思いなら、
考えてみましょう。
うろ覚えだが「猫びより」かなんかに、
塀の上で寝てる猫が、足だけ塀の外に
突き出しているものだから、
塀のこちら、下側だけからみると
「猫のバラバラ事件」に見える、という写真があつた。
なので観者はびっくりするのであるが、
ネコは1匹で胴は見えず、
その寝相が猫の柔軟性を伴って足の方向をバラけさせて見せ
我々を覚醒させる。
れんちゃんとりんちゃんの場合にも
同じことが起きており、
頭部が見えず、
また、
胴も判別し難いので足だけが入り組んでいる状態が見える。
人は何かを基準に物事を観察し理解しているものだから、
このように俄かには基準を見出せない時に混乱する事となる。
さらに、
偶然にも画像の真ん中あたりにネコの模様による子猫の
頭部に見えるものが混乱に拍車をかける、、、。
面白い訳である。
最新のテクノロジーで子ウシを真っ二つにし、
標本化した作品がスキャンダルな人気を得ているが、
これもまた、
どうやってという技術と
生き物に対する道徳的規範とが混乱を招き、
視る事を刺激する。
まあなんてことでしょう!
と言いながらも観ようとする我々がいる。
前述したように、
なにも子ウシを両断しなくても意識の覚醒はできるのだから、
そこまでやる必要があるのだろうかとも思われ、
また、
原爆ドームの近くで昼間、黒煙の花火を上げたり、
広島市上空に「ピカッ」と書いてみたりと覚醒を迫る。
アートは意識のギリギリを攻めてくる。
時に逸脱としか思われないものもあるが、
しかしアートは尋常からのみ生まれてくるものでもある。
最初から逸脱していたのでは、
危ないだけで、第一分かり得ない。
もちろんここでいう分かるとは
説明されれば納得というものではなく、
むしろ何の説明もないのに自らの内に
来るものがある状態、
そしてそれが尋常を揺さぶりながらも、
その上に立って意識させるものの事である。
たんに逸脱ではヒンシュクを買うだけだ。
ココでも認知障害の人達を参加させた作品を見るが、
そのギリギリは慈しみのそれへと向かっているか、
それともそのインパクトのためだけに
起用されてはいまいか
気を揉むところでもある、、、。
新聞は「ガザ」侵攻を伝える。
近代化した兵士の装備を大写しに見れば
暗視装置までつけている。
戦車の砲弾の炸裂を私達は想像出来るだろうか、
逃げ惑うという事を分かっているのだろうか。
ついこの間、
私達の親は同じようにその渦中に居た。
どのように絵に描いて見せてくれたところで、
どのように説明されたところで、
たとえアートであっても
それを言い表せるものでは無いと思う。
いま、命を奪われようとするとき人に何が出来るでしょうか。
ただただ逃げ惑う以外に何もできない状況というものを
どのように説明しようというのだろうか。
出来ない。
いまここに原子爆弾と共に暮らしているというのに
何もできない我々が、
逃げ惑う人をどのように救えるというのだろうか。
赤外線スコープでピンポイントにマークされた額の赤い丸は、
あなたを殺すと言っているのであって、
その後あなたを幸せにしてあげるとはいってないのです。
そしてあなたは確実に殺されるのです、、、。
れんちゃんとりんちゃんに戻る。
一瞬の恐怖が、
カメラを引いてみれば2匹のネコの愛くるしい
寝姿だと分かった時、
我々は幸せを感ずるものである。
そう思える作業をしたいものだ。
カワウソ
不意に飛んできた「カチューシャ」もまた、
あなたの頭蓋を吹き飛ばす。
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