「城」カフカ
「 城 」
カフカ
前田 敬作 訳
新潮文庫
私は仕事を止めた、
あるいはクビになったことを
妻に伝えきれずに悶々とし、
数ヶ月も行くあてもなく暮らしたのち
自らの命を絶つということが
あまり分からなかったが
「城」を読むとそのことが
明らかとなったような気がした。
現代社会が
「人間とは、すでに一個の歯車、職業という形で
受け持たされているひとつの機能にすぎない。」
(「城」あとがき)
ということであれば、
なるほど人は職を失えば人間では無いわけで、
無職ほどおぞましいものは無い事になる訳だ。
ゆえに「変身」(カフカ)のグレーゴルは
家族にさえ殺されてしまう訳だ。
昨今の交通事情を思うにとんでもない事故件数や
死亡数になるかと思えば、
はるかに自殺者数の方が多い。
これもだから上記の通りであって、
自らの人生を自らのために生きている人は
どうも少なく、かつ自らの人生は社会に
ゆだねた方が生きやすいということを
発見したということなのでしょうか。
まして死ぬも生きるもあなた任せで出来るのなら
こんな楽な事は無いと、、、。
「恥ずかしいというのは、自意識の悪戯である。
人は、それと知らず社会の期待する人間一般の姿を
内に取り込んで、自分の在るべき姿としている。
そしてそれと、一致しているはずの自分が
うっかりずれてしまっているところを
他人に認められると、恥ずかしいと感じるのである。」
「顔のない裸体たち」平野啓一郎(新潮文庫)
これもまただから、
恥ずかしいのは社会に対してであって、
自分の考えから恥ずかしいのではない事になる。
普通の人達が時にとんでもないことをしでかしても、
そのトンデモナイことが社会の認知の範囲であれば
「トンデモナイコト」として
かたづけてくれるのであろう。
トンデモナイ事をしたのは、
その「トンデモナイ事」なのであって
私では無いのである。
ゆえに人々は
「トンデモナイ事が起こってしまいました!」と言い
「まったく信じられません、
人間のやる事ではありません」と決着をつける。
しかしひとたび自分の考えに気付いてしまったなら
それはもう
「ジャンヌ・ダルク」ミラ・ジョボビッチ
(映画、好きだなぁ~)のように地獄へ突き落されるか、
さもなくば改心するしかなくなるという訳だ。
「城」のお内儀さんはK(考えに)にいち早く
気付いたのである。Kはお内儀さんに会う前に、
男達とも会っているのだが、
男達はその律法を守るのに忙しく
自分たちさえ何をやっているのかも知らずに
Kに迫る事となる。
男達はその侵入者に慄き、テリトリーを守るべく
Kを排斥しょうとする。
それではなぜ女達はKと話す事も厭わず、
親しげに話しかけてさえくるのか。
それは女達には何の権利も
与えられていないという事なのであり、
しかしその事によって人間的(生きものとしての)
行動が取れるのである。
しかしまた、
女性も片棒を担いでもいるし、
担がされてもいる。
私達(男)は人に話しかける時に
お互いの立場!に立って話し始めようとするが、
女達は「顔を見てから」話しかけるらしい。
それは目を見て話すというようなことではなく、
(逆に目を見てなんか話すと命取りになるやもしれぬから、
顔、その状態を見るのである。)
つまり獣でないかを確かめるのが先であると、
、、、キャッ!
でもって私(筆者)は時に知人の女性の
注意(アドバイス)を受ける事となるのである。
いわく
「顔も見ないで話しかけるなんて信じらんない!」と。
私達男は律法を邁進する事でしか
生きる術をしらないから、(と思っているから)
何かにつけ、いや、不便やおかしい事に気がついても
ソレを持ち出して議論するのである。
しかし、
決着は結局のところ暴力だったりするから
ショーモナイのであるが、、、、。
であるからして
「異邦人は、合理的理解という道をとおって律法に近づこうとする。しかし、
その世界に通用する生きるうえでの習慣的な約束事である律法は、
けっして合理的普遍妥当的なものではないから、
『異邦人の合理主義』は、
それを不合理の体系として見いだす。彼の合理的理解が正確になり、
徹底的になればなるほど、律法は、城は、彼から遠ざかっていくのである。」
(「城」あとがき)となる。
「村の人々は、なんらかの確信があって
そうしたわけではなく、おそらく本気で
わたしどもを憎んでいたのでもないかもしれません。
いまのようにわたしたち一家を軽蔑するということも、
そのころはまだ全然ありませんでした。
あの人たちは、ただ不安から遠のいていっただけで、
これから先どうなることかと日和見をしていたのです。」
昨今の沖縄(かぎらないが、、、)を見るにつけ、
これが私達の事だと気付かない訳にはいくまい、、、。
そして、「職業的人間」(「城」あとがき)は
「ただ社会のメカニズムが命じる機能的役割を忠実に
はたすだけで、一片の良心ももたない。
いや、良心をもつことをゆるされない。
従僕たちは、城にいるときは、掟の忠実な履行者であり、
村へ降りてくると、放縦な烏合の衆となる。
良心のないところに、責任ある行為は生まれない。
しかし、なにごとも責任をもって行わないかわりに、
命じられさえすればどんなことでも無責任にやってのける、
このような機能的人間を大量に飼育しておくことは、
現代の権力的体制の自明なやり口である。」
(「城」あとがき)となれば、
「これは、責任を持つ自由をうばわれた人間の、
ファシズム的支配形態のなかに隷属する人間の、
自己告白である。」(「城」あとがき)と、
あとがき者によって明快になる。
また、「城」では、今でいう
「臨時職員」(「城」P448)の立場や、
なぜかいつも曖昧な
「市役所職員」(P515~P535)のような
お話がタンと聞けるようになってもいる。
この項は暗唱できるようにしたいものだ、
そして企画部長あたりにお聞かせするのです。
すでに1/3程は暗唱どころか、
身につけてしまっているのだが、、、、。
すると、われわれは1922年から
身動き出来なくなっているわけだ。
獺
にしてもkは何故にこれほどまで女性とは
話が出来るのだろうかについては
別の機会に、、、、。
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