顔のない裸体たち
「顔のない裸体たち」
平野啓一郎
新潮文庫
表紙の黒や、そのイラストによってミステリーや
ハードボイルドをイメージさせるが、
そんな事は無く、
がしかし裏表紙の案内を読むとどうしようか
と思われるかとも思うが、そんな事もなく、
読みすすめる内にヒシヒシと、
日常的あるいはフツーのひとたちの混乱が
ここに起因するのかと思えるほどに
身近な話となっていく、、、、。
これのどこが身近かとお思いになるかも知れませんが、
これもしかし丁寧なイントロで
ヒロインの「吉田希美子」が語られるとき、
あるいは事件になって行く時の状況も今日的には、
残念ながらそれほど驚くに値しない事になっており、
いやその異常さが今日的に日常的になっている
という事が話なのではなく、
もとよりフツーであるはずの人のフツーの判断の仕方が、
このフツーでない日常を形成してもいて、
かつそのフツーさや「片原 盈」の
男性の凌辱性と重ね合わされるとき、
必ずしも異常とは言えない顰蹙(ひんしゅく)の中での
展開こそは、フツーに判断された結果の
「ミッキー」の肥大化に、
おののき喜ぶフツーの人がいるというところに
この小説の面白さがあると思う、、、。
そう、あなたはそうは思わない。
何故ならフツーに尋常だからであるが、
どの程度のフツーで尋常であるかを
問うてくるやもしれませんし、
いや、尋常だからこその、
のめり込みというのがあるという事が、
フツーに振る舞う事によって
あぶり出されてしまうという事かも知れません。
そこが怖くて面白いと。
こんなに回りくどくいう必要もないかしら、
これはフツーに生きている人の
フツーに生きた結果の話であると、、、。
うーん、それはまずいか。
でも、
以下を読むとどうも普通の事らしいことが
ありありと語られる、、、、。
各ページからの引用である。
「取り立てて珍しいというわけでもないが、
<吉田希美子>には、内省という習慣が殆どなかった。
何か一つのことを持続的に考える
ということがなかったし、
そのために必要な抽象的な能力が、
固よりあまり備わってなかった。」
「二人の会話には、携帯メールの絵文字のように、
所々に絵文字が貼りつけられ、相手への同意は、
感嘆府が打たれたように大袈裟だった。」
「恥ずかしいというのは、自意識の悪戯である。
人は、
それと知らず社会の期待する人間一般の姿を
内に取り込んで、自分の在るべき姿としている。
そしてそれと、
一致しているはずの自分が
うっかりずれてしまっているところを
他人に認められると、
恥ずかしいと感じるのである。」
「人体の関節の総数は二百六十五個と言われるが、
そこから幾つかが選択され、
さらに角度と方向との可能なヴァリエイションを加えて、
その数学的な組み合わせを一つ一つ造形してゆくと、
或るものは芸術的であるとされ、
また或るものは猥褻であるとされる。
偶然の悪戯で、日常生活の最中に、
すっぽりと人がその猥褻だという形態に
嵌まり込んでしまうことがある。
そうした時には、
男であれば哄笑の的とされ、
女であるならば忍び笑いの
種となるのである。」
「恋愛感情が、
性行為という結果に至るということを人は自然と考える。
その結びつきは自明である。
すると、
最初にだた性行為だけがある時、
その自明さが遡って何か
恋愛感情に似たものを捏造する
ということはあるのだろうか?」
といった具合であるが、本来これら日常的な認識が、
はたして日常的にあるかと言えば甚だ不安ではある。
そこにこの小説の認識点があると思われるが、
その遊戯に(SEXでは無い、念のため、、、)
参加する者(読者)のみにとって
悲痛な面白みとなっているでしょうか。
獺
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