ウチナーの子供
「なんでかって教えるか!」
愛しのウチナーの子供達
21世紀の子供達です。
テレビゲームもパソコンもいじれる
きょう日の子どものはずです。
「フン族」が健在なことに驚いたが、
今回はもっと素敵なセンテンスだった。
「なんでかって教えるか」である。
いや~久しぶりに聞いたなぁ~、健在だったのねぇ~
「ソレってさぁ~」と言うのが、
アーバンなセンテンスになっているはずだが、
散歩ですれ違った3~4人の子供たちの一人が言った。
「なんでかって教えるか!」
こういうとき大概他の子は聞いてないのだが、
リーダーらしき子がどうしても覇権を取りたくて、
メッセージするのである。
さらに、彼とてその場の思いつきで
話しているので、意味不明の解説になるのが落ちなのであるが、
なにせリーダーを示したい、
なので、ここはひとつ言って置きたいのだ。
「なんでかって教えるか」
すでに、このか細いボギャブラリーを暗示している響きに、
沖縄の苦渋を感じずにいられようか。
この教え諭すというような啓蒙的ニュアンスの言葉はしかし、
大人でも案外変わってなくて、結局のところ、
標準語的私生活に無い私達は勢い
訳語的センテンスなセンスとなることの表れではないのだろうか。
それにしてもしかしオトームニー的なのもその訳語が、
それ以上発展しないまま受け継がれていった
あかしなのでしょうか。
「なんでかって教えるか」
ここにウチナーンチュの悲哀なくして、
この言葉は継承できないでしょう。
「アンシイネェー、ヌーンディイレー、シムガッ!」
と返されたときやはり
「なんでかって教えるか」
としか言えないのではないかと思うのだ。
これをして文化的貧困というか。
「お早う」というのさえ難儀な環境下にあって、
暑いし「ダカラヨッ」で済ませたいのに、
「でも、比嘉君の言っていることって
よく分からないんだけれど、
気持ちはわかるような気がする」
とサポートを受け、それに気を良くして
「ヤラヤァ、分かる訳よぉ~」と言い切っても、
多分コミュニケーションは取れてないでしょう、、、。
サポートしてくれた、その移住の子も
半年ほどで染まるのだろうが、
それでも日常的会話の幅まで失うことはない。
この違いであって学力ではないでしょう。
この違いが学力の差となることはあっても、、、。
であれば、5時半に家に帰ってもあまり
意味ないかも、と思うのですが、、、。
家へ帰れば
「勉強したねぇ~勉強」
と言われるし、、、。
子供はわかる訳よぉ~
お母さんの言う
「勉強ってなんだろうか?」
と。
「あねッ、早く勉強しなさい!」
だから何を勉強すればいいのか教えてよぉ~
「だから勉強サッ、勉強!
こんだけもわからんねぇ~
ジュンニィ、ターンカイガ、ニチャラ!」
キャッ!
カワウソ
関連記事