こちらはミニカーの雑誌、期せずしてバスの話、、、。
暑いので本を読む
妻と付き合って17年ほどになるが、
彼女の事が全然分からないところと、
これだけは良く知っているというのがある。
彼女は良く本を読む。
いや、毎日読んでいる。
明けても暮れても本を読んでいるような気もする。
だからといってこの17年間私はご飯にありつけなかったり、
お腹を壊したりという事もなく、オヤツだって出てくる。
家事全般にも抜かりは無いが、
ちゃんと本を読む時間は確保している。
その事によって博識を披露するわけでも無く、
フツーのおばさんといえば、おばさんであって、
アパレル経由のクラフト屋さんではあっても
モノ書きでは無い。
また、
よくラジオも聴いていて私の何倍も世間に明るい、、、。
私は時に原稿を書いてお金をもらう事もあるのだが、
あまり本を読まない。
もっぱら雑誌をよく読む。
雑誌も本のうちではあるが、
車が大好きで、
だってモータリゼーションと共に育って来たのだ。
よってほとんどが車関係の雑誌となる。
しかし最近その大好きな車雑誌を読んでいると
ノータリンになるのではないかと
恐怖に襲われるときがある、、、。
妻はもっぱら純文学を読む。つまり小説を読む。
妻が読み終えた本を私に薦める。
気が進まないでいると
「あなたの事が書いてあるから読んでみて、、、」という。
うむ、そんな訳ないだろと思いながらも
そう言われると読まない訳にもいかないので読むことにする。
すると何故か私の事が書いてある。
妻の洞察力に関心するも何故に分かったのだと訝りもするが、
自分の事を考察する機会なんてそうは無いので感謝する。
車は円熟期にある。なのでその語りが煮詰まっている。
エンジンやサスペンション、シャーシーの話を、
またそれによって創出される走りのシーンにしたって
そう面白い事は無くなっている。というか、
金さえ出せばそのプロの走りが出来る訳ではないけれど
300馬力を手に入れることは出来、
その事によって魅力ある幻想は消えたのかもしれない。
きっと慣れたのだろうメカには、、、。
古臭い文学的言い回しで車を
語ろうとするものにあうと悶絶もするし、
それでは新しかった車をまるで馬車に戻すようなものだ、
もっとも車が馬車を超えたかというと
あまり変わらない気もするが、やはり車は馬車では無い。
そのボンネットに馬300頭入っているのだから!
妻に薦められた本を読むたびに
車雑誌が貧弱に思えるような気がしてくる。
車雑誌は新しい車言語を見つけきれずにいるのだ。
車雑誌「ENGINE」の鈴木編集長を読むと嬉しいが、
彼の哲学が面白く読めるのであって
車では無いような気もする。
車雑誌の全てがそうでないにしても新奇さがうかがわれない。
車雑誌のファンとして私思うに
殆ど語られてない事があると思う。
それはデザインだ。
概ねそれは個人の好みとして片付けられていて
好きな人は選べばよい、などというような語り口である。
ところがである。車こそはそのデザインによって
嗜好が決められているというのに
何故にデザインを軽くあしらうのかと常々疑問であった。
なぞは氷解したような気がする。
つまり、彼らはデザインをあまり知らないのだと、、、。
メカである車の走りについては多言してきたが
デザインは感覚的なものゆえ、また走っての車であるから、
いくら格好が良くてもダメという正論だったのだ。
しかし彼らとて知っていたと思うのだ。
大したこと無い性能なのに大ヒットした車がある事を。
近年若者の車離れが激しいという。
車は便利道具としてバス(ミニバン)までたどり着いた。
ここへきてスポーツカーの哲学が
若いライフスタイルを支えきれなくなったのだ。
スポーツカーと騒いでいるのはオジサンだけである。
私達は今極めてメンタルなライフスタイルとなっている。
車のイメージを新たに図像化してみせる必要に迫られている。
タイヤと路面のエクスタシーを語り聞かせても、
若者はそのセックスを知らない。
エネルギーによってタイヤが溶け、
粘膜となって路面に張り付きながらも
ズレ引き剥がされていく内に身悶えする。
タイヤが鳴き、
ステアリングを通してあなたは
彼女のオルガスムスを感じる、あああぁぁぁぁ~
それに魅力を感じないのが今の若い世代なら、
その美しくも切ない愛を図像化して見せようじゃないか!
デザインで!
自動車が過渡期である。
ハイブリット、燃料電池、電気である。
でもタイヤが4つ付いているのに変わりは無い。
飛べばスーパーカーになるがそれは違う話でしょう。
表現の選択肢が増えたわけだ。
いままで作(デザイン)れなかったボンネットの高さ、
フロントスクリーンの位置、おそらく数限りない形状が出来そうだ。
ここへきて新スタイリングが出来るのだ。
ところが今プリウスやインサイトを見ても
カッコ悪い事夥しい。そう、技術革新は未来を示しているが、
そのデザインは遅れて来た未来カーの様相だ。
少し考えれば分かることで、
それらの車がハイブリットやエコカーでなかったら
買うかという形状なのだ。
そこでデザインだ。
新しいものが創出されるときというのは
じわじわと出てくるのでは無くドヮ~っと
天変地異に迫力で現れる。
そして、新しいので、それが車と気付かない程なのだ。
そう、新しいクルマ!それは「読書」だ。
自動車評論家諸君!これからの自動車は「読書」だ。
走りじゃ無い、読書を走らせるのだ!
もちろん本を持って走れといっているんじゃない。
それでは頓馬だ。いくら馬力があっても頓馬である。
このところの車のボディパネルを見ていると
中々うねうねとしていて空間を取り込んでいるようにも見えるが、
単にうねっているだけで、
その喜びだけ表現していて
全体としてもバランスになっていない。当然だ。
全体の形状を見いだしていない今、その形が出来る訳が無い。
だから車のデザインの刷新のため「読書」となるのだ。
そしてその本とは「小説」だ。
わかんねぇだろ、全然ワカンネぇだろ、
小説をお話とおもっている人には分かんねえはずだ。
小説は話じゃない、世界だ。
ソレも形になっていない世界だ。
何処を差しているかも分からん指標だ。
単に形にしたら本になってしまう。
小説で車を作らなければならない!はぁ、ではない、
先ほどの比喩的セクシィを語ってもダメだっ、
それではまたしても車は女という事になって、
ヒンシュクを買うばかりだ。
女性受けしそうというデザインが
新しい車で無いのは言うまでもない。
小説としての車を考える。これだ!
読み終え終えたころまた一冊と妻が持ってくる。
やはり「あなたの事が書いてある、、、」という。
ならば読む。
しかし、それが繰り返される内に気付いた。
小説は世界であるから、われわれの事が書かれているのだ。
あなたや私の事である。
何の事とは無い、私の事が書かれていて
当たり前なのであった。
ええぃ、ここへきて嵌められたことに気付いたか。
どうにも怪しいと思っていたが、
彼女の本棚は既にそのキャパシティを超えていたのだ。
それでひとつづつ薦めては私の本棚を埋めていたのであった。
なんというメンタリティ(知恵)だ。
「アラ、そんなことなくてよッ、
あなたはそれによって触発されて
車が『小説』という荒唐無稽な哲学を
発見したんだから、素敵よッ、、、」
っていわれると、
そんな気もしてくるがはてどうなんだろう。
今一度考えてみよう。
それにしても暑いなッ、、、、。
それでは、
雑誌の読み方を伝授しよう。
それは隅々まで読む事だ。
特集だけ読んでお終いでは、
雑誌を読んだことにならない。
なにしろ雑誌といっているのだからだ。
ページの数字も
熟読するくらいでないといけない。
プレゼントのコーナーも、応募に関係なく読み、
どれが欲しいか真剣に悩み考え、
して、プライバシーの安全を考えて、
応募を見合すくらいでないといけない。
もちろん応募できるようになって初めて
雑誌読者の達人
と言えるかもしれない。
健闘を祈る!
カワウソ